研究科長メッセージ
2026年4月開設の総合学術研究科は「単一の専門知だけでは解決できない人間や社会の課題解決、すなわち「総合知」を創出する場で課題解決に主体的・協働的に取り組み活躍する人材を養成する」ことを理念としている。ここで「総合知」が括弧にくくられているのは、この言葉が引用であるからだ。私たちの大学院は自らの理念として他者の言葉を掲げたのであり、引用によって語ることを選んだのであって、それを隠そうとはしなかった。もちろん、そもそも私たちはみな他者の言葉で語るほかはないのだから、そのこと自体は良くも悪くもない。問題はその先である。私たちは「総合知」というこの他者の言葉と、どうつきあえばよいのか。
一般に、引用に対してなすべきことは二つある。一つは引用元を探ること、もう一つは引用された他者の言葉に自分自身の言葉で問いかけてみることだ。引用元はすぐに調べられる。2020年の科学技術基本法改正は、これまで「科学技術」の範囲から除外されていた人文・社会科学を取り込み、「イノベーションの創出」を柱の一つに据えた。翌2021年に閣議決定された第6期科学技術・イノベーション基本計画は、人文・社会科学と自然科学の知の融合による「総合知」の創出・活用を謳った。さらにその翌年、2022年に発表された「「総合知」の基本的考え方及び戦略的に推進する方策(中間とりまとめ)」は、「総合知」を「多様な「知」が集い、新たな価値を創出する「知の活力」を生むこと」と定義し、「総合知」が可能にする科学技術の進展とイノベーションの創出のうちに、わが国の「勝ち筋」を見出すことができるという。
「総合知」とはだから号令だったのである。私たちの言語は「叙述する言葉」と「命令する言葉」から成ると喝破したのは戦時中の林達夫だが、彼にならっていえば、「総合知」とは命令する言葉なのだ。だがやはり、そのことの是非はここでは問わない。あらゆる叙述の言葉は同時に命令の言葉でもあり、行動の言葉はつねに理性の言葉を模倣しようとするのだから。問題は依然として私たち一人ひとりに委ねられている。知において総合的であれという時代の要請(命令)に、私たちはどう向きあえばよいのか。
答えは人それぞれだろうが、例えばこんなのはどうだろう。「総合知」を、さまざまなキャラクターたちがさまざまな声で語る「小説」のようなものと考えるのである。たかが小説だから、ある人物のいうことを盾に別の人物を「論破」する必要もないし、脇役だからといってわざわざ追放する必要もない。そこには強いキャラも弱いキャラもいて、互いに徒党を組んだり敵対したりしながら、全体として一つのまとまりを作っている。そこで良き読者に求められるのは、小説のなかのさまざまな声を聴きとろうとすることだけだ。あるいは、魅力的な他者たちの声に蠱惑されながらも、そこにそっと自分の声を、あるいはまたさらに別の声を、忍び込ませてみようとすることだ。
それは、一つの声に忠誠を誓い、それ以外の声を圧殺しようとする権威主義とは正反対の態度である。パレスチナ系アメリカ人の批評家エドワード・サイードがいっていたように、小説には「一つの声、ないしはいくつかの声の権威が、それ自体で自足しているということに対する強い懐疑がなければならない」。「総合知」を謳う大学院に集う私たちに求められているのも、このような懐疑だと思う。
